2008年3月14日金曜日

AAAS年次総会(ボストン)報告

阪大の春日です。
 アメリカでの科学技術コミュニケーションに関する議論を調べるために、ボストンで行われたAAASの年次総会に行ってきました。
 参加レポートをNPO法人サイエンス・コミュニケーションメルマガに掲載しました。
 下に転載しますのでご覧ください。
 また、私個人のブログでも私的な感想を掲載しています(その2その3)。


2008年AAAS総会「グローバルな視点からの科学と技術」報告:
準国家機関としてのAAAS、あるいは、なぜアメリカでは科学者が社会のために努力するのか? 

 2008年2月14日から18日という日程で、ボストンにおいてAAAS(全米科学振興協会:http://www.aaas.org/)の年次総会が開催された。このメルマガの読者であればすでにご存じの通り、AAASは1848年に設立された非営利団体で、「すべての人々の利益のための、世界中の科学、技術、イノベーションの振興」をミッションとしている。総計一千万人以上にのぼる構成員を抱える262団体がメンバーである。また、一般には世界のトップ・ジャーナルとして知られる「サイエンス」誌の発行元として知られている。

 今回、機会があってAAASの年次総会に参加したのでここにご報告する。

*年次総会ウェブサイト
http://www.aaas.org/meetings/

 アメリカ政界にはプロのロビイストが多数活躍しており、クライアントの要望を国政に反映させるべく日々活躍している。これは科学者も例外ではなく、AAASの重要な活動の一つに、若手の自然科学者に資金を提供して政策フェローとしてワシントンの各種組織に送り込むことなどがある。これは、政権が変わると科学技術政策なども激変するアメリカの事情を反映している。例えば現在のブッシュ政権下では、国防関連の研究開発が延びる一方で、その他の研究開発費用は減額されてきている。また、幹細胞など生命科学系の研究は制約される傾向にある。また、気候変動問題については、大規模な取り組みを行うことがアピールされているにもかかわらず、現実の研究費は延びていないという不満も聞かれた。こういった問題について科学者や関係機関が相互に情報交換し、ロビイングにつなげていくのがAAASの大きな目標の一つである。

 その一方で、会場ではニコラス・ネグロポンティなど著名な科学者の講演、150を超える数のシンポジウムやワークショップ、キャリアセミナーや各学協会の会合、そして一般向けや、特に子ども向けのイベント(あるいは子ども達による)発表など、無数のイベントが行われている。シンポジウムではありとあらゆる科学的なトピックが扱われるが、今年度のテーマが「グローバルな視点からの科学と技術」だったせいもあり、気候変動を初めとする環境問題、貧困や第三世界の社会問題(特にアフリカとHIV)に関係するシンポジウムが多数開催されて、熱心な討議が行われていた。

 AAAS会長デヴィッド・バルティモア(生物学 カリフォルニア工科大)の基調講演でも、第三世界の人々の生活は向上されなければならないこと、しかしそれが過度に環境負荷の高い方法で行われないようにしなければならないことが述べられ、そのために会長自身がインド(環境負荷の高い成長の事例と言うことであろう)とルワンダを訪問し、意見交換を行ったことが説明された。その後、ルワンダ大統領自身が登壇し、研究開発への期待も説明された。

 他にもAAASはクウェートとの「アラブの女性リーダー」に関する会議や中国政府との「科学倫理」に関する会合、イノベーション政策に関するヴェトナムとの会合、科学と社会に関する欧州委員会との会合を行うなど、積極的な国際交流を行っている。評議会での報告では、これらの交流について、AAASのカウンターパートになるのはほとんどの場合各国の「科学省」に相当する機関であり、「科学省」を持たないアメリカでAAASが疑似省庁(Quasi-ministry)の役割を果たしているという状況が指摘されていた。

 NGOであると同時に疑似省庁であるAAASというのは、ある意味で、非常に自信に満ちた見解であり、アメリカの科学者達が目指しているものや置かれている状況をよく表しているだろう。これを反映して、評議会では人権問題にも多くの時間が費やされた。科学技術の倫理的な側面や、各国の科学者がおかれている状況について、これまで多くの研究が重ねられており、今後もそういった努力は続いていくだろう。ただし、ここには単純な理想主義ではなく、アメリカ社会の深刻な状況も反映している。よく知られているように、アメリカでは宗教右派が政界に大きな影響力を持っており、学問の自由に対して抑圧的であると見なされている。そこで、科学者達は常に学問の社会的意義を問い直し、それを表明していく必要性に駆られているわけである。特に、進化論は宗教右派と科学者の抗争の最前線であり、AAASでも多くの議論が交わされていた。

 一方で、人権や社会的利益を追求することの見返りが存在しているという側面も指摘出来る。例えばアフリカの問題などは今や世界最大の非営利財団であるビル&メリンダ・ゲイツ財団が積極的に支援を行っている。このため、第三世界の健康問題には大きな予算がついている。こういったことは、研究開発費が(企業による営利活動以外は)国費に限られており、研究費の分配も政府による戦略的な配分か、割り当てられた予算を科学者たちで分配する科研費に限られている日本ではあまり考えられない。日本でAAASのような試みが自発的に行われてこなかったのは、研究費の総額が天下りで決まっており、配分に関して口を出す業界メンバーはより少ない方が良い(逆に、世間をいくら巻き込んでもビル・ゲイツのような資金提供者は現れない)という事情が影響しているとは言えるだろう。

 そうしてみれば、「科学技術コミュニケーション」という面でも、アメリカでは常に科学者が科学者以外のジャーナリストや政治家、法律家、慈善事業家たちを科学のシンパにしておかなければいけないというモチベーションが働くのに対して、日本では研究費にアクセスする権利を持った小数の同業者達以外のものを議論に参加させまいという力が働くと見ることも出来るのではないだろうか? 現実問題として、AAASに参加している科学者たちが科学をアメリカの文化として根付かせようと言う活動にこれまでも極めて熱心だったのに対して、日本の科学者達は極めて閉鎖的であるという非難を受け続けてきた。残念ながら、ノンアカデミック・キャリアを選ぼうとした瞬間に、指導教官から「じゃあ博士号はいらないね」と言われたり、そこまで酷くなくても指導がいい加減になるというのはよく聞く話である。自分の分野を理解し、場合によっては博士号を持った議員、弁護士、ジャーナリストなどが活躍することが、自分の研究分野にとってどれだけエンパワーメントになるかを考えれば、そういう可能性を自分から封じてしまうのは馬鹿げているだろう。しかし、そういった機感を日本の科学者が共有するようになってきたのは、極めて最近のことである。

 社会一般(General Public)と価値を共有する努力というのは民主制の基本であるが、そういった意味では日本の大学や科学者個人はまだまだ欧米から学ぶところが大きいと言えるだろう。また、日本では「人権」というと机上の空論と見る向きが大きい。もちろん、アメリカ社会が「人権」の名の下に戦争を起こすような矛盾を抱えていることも事実だろうが、「理想」を空論として遠ざけるだけででは異なる価値観を持つ人々や社会の間でのコミュニケーションが成り立たないのも事実である。理想が完全に実現しないとしても、すこしでも理想に近づくための努力はあるはずだし、理想を追求することが自分たち自身のエンパワーメントにもつながる、という信念にも見習うべき所があるだろう。また背景に「個別の理想の可否は兎も角、個々人が理想を追求することが結果として社会を良くするのであり、その追求には一定のインセンティヴが維持されるべきだ」という哲学が存在していることも見逃すべきではないだろう。